- 株式会社SEA.SON 代表取締役社長
- 1962 年
禅僧である沢庵和尚の血筋を持つ秋庭家の次男として大阪にて誕生。- 小学5年生まで大阪で、小学6年生で宝塚に引越。
- 高校を全寮制である千葉県の麗澤高校へ入学。 京都の大学を経て、
4 年間家業の製造業を手伝う。- 1989 年 東京銀座の歌舞伎座東新館のプランニングに参加。
- 同館 禅ギャラリー「洗心」の支配人となり後に、同館総支配人となる。
- 1993年11月 禅のことや瞑想、癒し関連のことなどを学び
たばこやお酒を終える(吸えなく、好んで飲めなくなる)- 『 気づきと癒しをテーマに絵てがみの教室』を新大阪のマンションの一室にてスタートさせる。
- 1997年3月 『 natural kitchen めだか1 号店』を梅田太融寺付近にOPEN。
- 2000年4月 滋賀県の鯖街道ぞいの大自然の中、リトリートスペース『 風の谷』にて、ナチュラル料理教室、アロマ教室、ハーブ教室、絵てがみ教室などを合宿形式で行う。
- 2003年3月 古民家を改装し、レストランギャラリーオープン(05年1月まで)。
- 2005年6月 上質岩盤浴『ちいさな木』OPEN。
- 2006年2月 『natural kitchen めだか2 号店』。
- 2007年8月 株式会社SEA.SONを設立。
- 2009年4月
めだか1号店をケータリング形式に変更。宅配弁当、店頭弁当の販売。- 2010年4月
大阪の守口市の禅寺『南詢寺』の新築改装のトータルコーディネート。- 2010年11月 『season フリールーム’8’』とボディセラピー「HOLOS」をOPEN。
- 2011年1月 PHP研究所より10年前に執筆した『動物職人のなみだ』 が発刊。
- 2012年11月
顧客が女性ばかりになっていたので、男性顧客と接点を図るために山口県の郷土料理を出す居酒屋『瓦そば すずめ』をOPEN。- 2014 年 アイリッシュハープの広げるべく新ルームをOPEN。(現在はギター教室、バイオリン教室になっている)
- 2015年 キモチを音楽で伝えよう、MUSIC LETTER プロジェクト をスタート。
- 2017年 めだかスタッフと自身のオリジナル曲を発信するために 音楽ユニット リとラ を結成。
- 2022年
感情エネルギーの開放の必要性を感じ「感情エネルギー研究所」をスタートさせる。- 現在、直営店の運営の他、飲食店・旅館などの空間プロデュースやコーディネート、コンサルティングも行う。
- 既婚・二女の父
やりたいことを楽しみながら
生きていくことはできるのか?
それが私の人生のテーマでした
中学生のころから兄の持っていたギターを使って音楽を作るのが好きでした。高校に入ってからは音楽活動に明け暮れましたね。実家が製造業を営んでいたので、父親からは家業を継ぐように言われていましたが、私は次男というのもあって「自分の本当に打ち込むことを見つけられなかったら家業を継ぐ」という条件をもらい、大学時代は好きな音楽活動やウインドサーフィンをひたすらやっていました。
ところが一生懸命にやっていると、大好きな趣味に対して義務感というか、仕事をやっているような感覚になってしまい、いつの間にかやりたいことでなくなってきちゃったんです。それで約束通り、卒業後はいったん家の仕事を手伝いました。
私にとっては、「やりたいことをやり、楽しみながら人は生きていくことはできるのか?」というのが人生の大きなテーマだったので、なぜやりたいことは、やりたいことでなくなってしまったのか?そんなことをよく考えるきっかけをもらったような気がしています。
26歳のころ、ある社長さんから声をかけていただき、歌舞伎座東新館プランニングに参加し、東京へ出向くようになりました。そして、そのまま、同館にある禅ギャラリーで仕事をさせてもらうことになり、直感で、その仕事をやってみたい、やってみると決めると、父親からは「好きにしろ」と勘当されてしまい、このことは私の人生にとって大変大きな転機になってゆきました。

▲家系は沢庵和尚の血筋
東京は銀座、歌舞伎座の真横で禅の書画などが飾られ、僕はそれについて説明をしなくてはなりません。本を読んだりお坊さんから聞いたお話をもとに説明するのですが、ある経営者の方から「きみは禅の本質がわかっていない」といわれて愕然としました。しかし、その経営者の方からは非常によくしてもらって、経営者が集まる会合にも勉強のために連れていっていただくようになり、そこから新しい人脈が広がってたくさんの名立たる経営者の方とも知り合いかわいがっていただくようになりました。
バブルが崩壊して生き残る経営者と消える経営者。
生き残った経営者に共通していた“禅的な考え”
バブルの全盛期。 20代後半を華やかな成功者に囲まれ夜な夜な銀座界隈をはしごする日々の中 、 「自分はどんな大人になりたいんだろう?」と素朴に考えるようになりました。
まもなくしてバブルがはじけ、そのときに「生き残った経営者」と「消えていく経営者」を私は間近で見させていただきました。そして残った経営者の方たちに通じるものが、禅的な考えにも合致しているということでした。彼らの話はそれこそお坊さんたちが語る内容よりも非常に実践的かつ実務に即しており、さらには非常に身近で体験的であったので、私は経営視点から禅の世界に深い興味を持つようになっていったのです。
当時の成功者と呼ばれる人の多くはお金もあり毎日楽しそうだけど、どこか真の安らぎに欠け、本当の幸せを得ているように、私には見えなかったのです。そんな中、尊敬する経営者の方たちから言われて、自分の中で大きくなっていったのは…
「“本物の心の平安 幸福感”といったものを得るためには、いったいどうしたらいいのか? 」という問いでした。

自分を見つめる中で、気づいたことがいくつかありました。最初の気づきはマネージャーの立場で部下への対応を考えているときです。ふと、「自分が部下の視点だったら。。。」ということで自分のことをみた時、「今の私のような上司は嫌だなあ」って気づいたんです。僕は、いい上司になろうなろうと本を読み漁っていたのですが、本当に部下のことを大切にすること、向き合うことをしていなかったことに気づかされ、そんなことが 自分を客観視するというコツを少しつかみかけた瞬間でした。
自分を見つめ直して気づいた
親への愛情と自己承認欲求。
そこから見つけた本当に自分がやりたい癒しの世界
そんな経験もあり、「自分の心の痛みはどこからきているのだろう?」「いつから父親への反発をしてきたのだろう?」「兄に対してはどうだろう?」自分は、「本当はなにがやりたいんだろう?」と、自分を少しずつ客観視するようになりました。すると、私の父への反発は、父への愛しさからきていることに気づかされたのです。
私は父に認められたかったんです。兄とは違うところで認めてほしかった。だから音楽や芸術といった兄がやらなかったことをやって認められようとがんばった。好きでやっていたつもりだったすべては、じつは父に(誰かに)認めてもらうためにやっていたんです。だからどんなにやっても、認めれているときは楽しくても、認められなくなると嫌になった。やりたいという気持ちよりも本当に欲しかったのは、誰かからの承認だったと気づかされたのです。私の心は自己承認を渇望していた。その無意識の欲求が私の行動や考え方までをも支配していたんです。だからそれが満たされないとストレスが襲い、その影響でお酒や大きく見せて見栄を張ることが必要だったんです。

そのことに本当に気づいた時、私は何をやるにしても、自身の心の痛みを癒すことが先決だと考えメンタルの癒しマニアになりました。
30年も前にアロマやハーブなどあらゆるヒーリンググッズを買い集め、食事を変え、水を変え、そんなナチュラルな生活に身を置くうちに、自然とたばこが止み、アルコールも止み、日々の生活がどんどん快適になってゆきました。
そしてバブルの崩壊とともに禅ギャラリーも閉館となり、私は関西に戻ることになります。
そして京都での仕事を2年ほどやっていくうちに、本当の幸せは心の正常化(癒し)と客観的視座を持って生きる(瞑想的な生き方)の中にあると気づかされました。そして「私も誰かの傷ついた心を癒すようなことを仕事にしてゆきたい」と強く思うようになり、会社を辞めることを決意しました。
心やカラダが癒されるもの
それが僕のビジネスのキーワード
最初は独立した友だちの小さい事務所を間借りしてのスタート。私は自分の高くなったプライドを捨て去るために、あいだみつをさんのカレンダーを売る営業として、会社、お店に関わらず、飛び込み営業をさせてもらいました。そんな日々は、お金は稼げなかったけれど私にとって必要な過程だったのだと思います。
私は、禅ギャラリー時代、来館してくださったお客さまに、直筆でお礼のはがきを送る風習があり私はよく絵てがみを出していました。そこで、友人に絵てがみの描き方を伝えたところ、「コレはいろいろな気づきがあって、やりたいことに通じるものがあるんじゃないか!?」というアドバイスをもらい、「自身の心に気づく絵てがみの教室」を始めました。

早速ちらしを作って近隣オフィスにまいたところ、アドラー心理学のセラピストたちに興味を持っていただき、そのセラピストたち全員に受講していただき、その後その方たちによっていろいろな方を紹介していただき、あっという間に教室も生徒さんも増えていったのです。
そんなあるとき、大阪の「絵てがみ教室」として借りていたレストランが、閉店することになり、この場所を引き続き借りてくれないか? という話をいただきました。飲食店なんて無理だと思ったのですが、もしやるなら体の内側から癒されるような健康的な食事を提供したいと思いました。が、料理はつくれません。料理人をどうしようと悩んでいたところ、絵てがみ教室の生徒さんから「私たちが手伝います」と声をかけていただき、一緒に運営してゆくことになりました。
まだオーガニック専門店がわずかしかなく、しかも高価で、入りにくい時代でした。私はサラリーマンがランチでヘルシーなものが毎日食べられるようにと、850円で提供できるオーガニック系レストランを目指しますが、有機野菜などは高くてコストが合いません。そこで、新鮮な旬の野菜と玄米とを組み合わせた、有機野菜にこだわらない健康ランチに転換。新しいスタイルのナチュラルレストランが生まれました。
私のいくつかの事業はみんなこんな感じです。何かしらのキッカケがあって、だったら「心とカラダを癒すもの」というテーマに合うものを広げてきたら、今のようなカタチになりました。ある人からみたらバラバラなものですが、ある人が見たら大変理にかなったものになっていると思います。
私は今、自分のやりたいことだけを仕事にしています。自分のやりたいこは人間の心とカラダが癒えること、そして今後も自分を客観視することや心
を癒すことから自然とたどりつく、今を生きるのコツを、体感として感じとってもらえるきっかけになるような場を作っていきたいと思います。
2019年 12月 いわみんさん インタビューより
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上記の内容と被りますが以下はコパイバというオイルの雑誌のインタビューによるものです。 こちらは 2019年 10月のものです。
(1)華やかな生き方、追い求めた豊かさのカタチ
私は大阪で生まれ育ち、父母に兄と私の四人家族でささやかに暮らしていました。
10歳になる頃、製造業を営む父の商売が大成し、宝塚に大きな家を構え引っ越しまして。
傍から見ればなに不自由ない生活だったと思います。
一方で父は多忙から重圧もあったのでしょう、以前より威圧的に振舞うようになりました。
小さな家の方が良かったね、と兄とよく話していたものです。
父は私たち兄弟に仕事を継がせたかったようですが反発もあってか二人とも我が道を進み、私は当時東京に新設された
ばかりの歌舞伎座 東新館で呉服屋が営むギャラリーの支配人を任され、禅書画の展示や販売の仕事に就いていました。
20代半ばの私よりお客様の方が造詣が深く、知識を披露しても逆に禅問答を受ける日々でした(笑)
ある日、名だたる社長さん方が「先生」と呼ぶ老紳士がギャラリーにいらっしゃり、誘われるままに一流といわれる会社の
経営者が集う勉強会に参加するようになりました。
それからというものあちこちから声を掛けていただくようになりまして。
時はバブルの真っただ中ですから、芸能人や著名人のパーティや会食に呼ばれてはお酒や煙草を浴びるように飲み、遊び周る
ようになりました。
世間が「偉い」と呼ぶ大人との付き合いは華やかなものでしたが、暫くすると心から楽しい訳でもないことに
気付きました。
若くして豪勢に飲み歩き周囲から羨ましがられるが、家族とはうまくいっていないし子供は私に近づきもしない。
毎晩眠れず、身体は怠いし排便すら辛い。
これが自分の目指すべき道なのか、疑問に思うようになってきました。
(2)バブルの崩壊と傷ついた心
そんなある日、ご存知のようにバブルが弾ける時が訪れます。
つい先日まで贅沢の限りを尽くしていた豪胆な社長さんが、一夜にしてガラリと人が変わってしまう。
対して同じ状況下にあって心穏やかに見受けられる社長さんもいました。
両者の違いに注目すると、前者には強いコンプレックスを抱えた方が多かった。
劣等感や心の痛みをお金で埋めても、風が吹けば枯葉のように舞い散り消えるものなんですね。
自分自身を見つめ直せば、絵や音楽に没頭したり、家業から離れ華やかな世界に出入りしたり…父が嫌いで反発していたようで、
実は父の眼を私に向けさせたかったんだと気付いたのです。
そして同時に、父が私を遠ざけていたように私自身も我が子を遠ざけ、同じ境遇を押し付けていることにハッとしました。
自然と涙が止め処なく溢れ、打ちひしがれる私の膝元に幼い娘がやって来てちょこんと
座ってくれましてね。
自分の中のコンプレックスに反発するのでなく抱きしめてあげると、途端に心がふっと楽になる。
それからというもの、巷で『心が癒える』と言われるものを片っ端から試しまして。
そのうち心に平穏が訪れたように感じ始めました。
すると段々と煙草やお酒が不味くなりピタリと止めてしまいました。
当時の知り合いには「病気じゃないの?」と逆に心配されたものです(笑)
(3)ネガティブを受け入れるきっかけづくり
心が癒えてゆく内に、この経験をもとに心に傷を負った人々を癒すことが出来るんじゃないか、と思い至りまして。
翌日には会社を辞め一切の計画もないまま始めたものですから、家に生活費を入れられない状態が10ヶ月続きました。
そんな時ふと、以前友人と絵てがみ文通をしていたことを思い出したんです。
絵てがみは描いた方の分身のようなものですから、自分を売り込むツールとしても大変優れているんです。
早速身内や知り合いを集め、絵てがみ教室を開催してみました。すると兄が自分の絵てがみを見て「俺のはなんだか堅苦しいなぁ」とつぶや
いたんです。これだ!と思いましたね。
あるがままの自分を受け入れることが癒しへの第一歩ですが、コンプレックスは人に指摘されても中々受け入れられないもの。
でも自分で描いた絵てがみは、鏡のようにすんなりと入ってくる。
自分を見つめることに直結しているんですね。
直ぐにチラシを作って大阪中を歩き回ったところ、生徒さんの協力や口コミもあり12か所の教室が出来ました。
それからは好きな癒しをひとつずつ形にしてゆきました。97年には全席禁煙の玄米食レストランを始めました。
当時は玄米食はおろか店内全面禁煙のお店なんてごく僅かだったので、大変珍しい目で見られました。
この食事を社員に毎日食べさせたいと仰ってくださる企業さまも出てきて、宅配弁当のお店をオープンしたり。
また僕は晴れた日の河原で寝転ぶのが大好きでして、岩盤浴のお店を開いたり。
ハープ教室やフィトセラピー教室もそんなアイディアや実体験をもとに始めました。
コパイバ マリマリも独立当初から扱っているお気に入りの商品です。
25年前、初めて香りを嗅いだ瞬間自分の中のナチュラルが一気に取り戻された気がして大変驚いたことを覚えています。
心を癒すって、セラピストやアーティストを通じても可能ですが、本人にしか出来ない部分も必ずあると思うんです。
私もそうでしたが、まずは自分を癒すことに興味を持つところから。
そのキッカケが沢山ある場所をつくって、これからも色んな癒しを提案してゆこうと思います。
秋庭 宏是(あきば・ひろし)
1989年、銀座、禅ギャラリー「洗心」の支配人となる。バブル経済を経験後、
心の癒しと気づきをテーマに大阪にて「ウエストの絵てがみ教室」を開講。
2008年に株式会社SEA.SONを設立し、自然食レストラン・癒しの音楽教室・
ヒーリングエステをはじめ11店舗に亘る直営店を通じ、多角的に心と体の癒し
を具現化・提案し続けている。
株式会社SEA.SON(シーズン)